SFホラー好きならば「The Thing」

原作者ジョン・W・キャンベル

この映画の原作はジョン・W・キャンベルの「影が行く」ですが、一番初期の映画が1951年と大変前の作品です。ジョン・W・キャンベルはアメリカ合衆国の小説家、SF作家、編集者でもありました。SF雑誌『アスタウンディング・サイエンスフィクション』(後の『アナログ』誌)の編集長を1937年から亡くなる直前まで務めています。いわゆるSF黄金時代を築いた立役者の1人とされています。

アイザック・アシモフはキャンベルについて「SF界で最も強力な力を振るった人物で、特に編集長としての最初の10年間は完全にSF界を支配した」と評しているほど、SF界では絶大な力を持っていた方と言っても過言ではありません。作家としては、スペースオペラを本名で発表しています。パルプ雑誌的でない小説はドン・A・スチュアート (Don A. Stuart) の名で発表しています。アスタウンディング誌の編集長となってからは、創作活動ををほとんどやめてしまっています。

夜眠れなくなる程のホラー

彼の生涯

1910年6月8日にニュージャージー州ニューアークに生まれています。父は冷酷な性格の電気技師でした。母は優しかったが気まぐれなところがありました。その母には双子の姉妹がいて、幼いジョンはその叔母に嫌われていました。ジョンは母と叔母を見分けることができずなかったので、叔母を母と間違っては冷たく拒絶されていました。

マサチューセッツ工科大学 (MIT) に入学し、ノーバート・ウィーナーと友達になりました。18歳でSFを書き始め、すぐに雑誌に作品が売れるようになりました。21歳のころにはパルプ・マガジン作家としてある程度名が知られるようになりましたが、ドイツ語の試験に落ちてMITを中退させられました。その後デューク大学で1年間過ごし、1932年に物理学の学士号を得て卒業しました。

1931年に結婚していますが、1949年に離婚。翌年の1950年に再婚しています。人生の大半をニュージャージー州で過ごしていて、同州の自宅で1971年7月11日61歳で亡くなりました。

作家として

彼は、19歳のときアメージング・ストーリーズ誌1930年1月号にて "When the Atoms Failed" という短編で作家デビューしています。実はそれ以前に "Invaders from the Infinite" という作品もアメージング誌に売れてはいましたが、編集者が原稿を紛失してしまっていたために、その作品は掲載されていません。初期作品にはスペース・オペラの「アーコット、モーリー&ウェード」シリーズなどがあります。科学性の強い作風は、1930年代のアメリカSF界において高く評価されることになりました。

キャンベルは宇宙冒険ものを書く作家として、まず地位を確立していきました。1934年に違った傾向の作品を書き始めたとき、妻の旧姓 (Stewart) から考案したペンネームを使っうようになりました。

1930年から30年代末ごろまで、キャンベルはどちらの筆名でも成功を収めることになります。ドン・A・スチュアート名義で発表された傑作として「薄暮」(アスタウンディング誌、1934年11月)、「夜」(アスタウンディング誌、1935年10月)、「影が行く」(アスタウンディング誌、1938年8月)があります。「影が行く」(Who Goes There?) は南極探検隊が異星人の宇宙船の残骸を発見する話で、不定形の悪意ある異星生命体が登場しています。これは、『遊星よりの物体X』(1951年)、『遊星からの物体X』(1982年)として2度映画化されています。「影が行く」が発表された当時キャンベルは28歳で、様々な雑誌に電子工学や無線工学についての記事を書いていたころでした。ちなみに、キャンベルはアマチュア無線を趣味としています。

SF作家としての代表作は、月面探検隊のサバイバル生活をリアル描いた1951年に発表された『月は地獄だ!』が挙げられます。

編集者として

1937年後半に、F・オーリン・トレメインはキャンベルをアスタウンディング誌の編集者として雇うことになりました。編集長となるのは1938年5月のことでしたが、作品の買い付けはそれ以前から任されるようになっていました。キャンベルは編集長に就任すると早速改革に乗り出し、「ミュータント」という言葉を独特な小説を意味するのに使い、1938年3月には誌名を「アスタウンディング・ストーリーズ」から「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」に変えています。

1938年3月にレスター・デル・リー(SF小説家)を見出したのを手始めとして、1939年には多数の新人作家を発掘することになりました。これがまさに「SF黄金時代」の始まりでもあります。特に1939年7月号が大きな転換点となりました。7月号にはA・E・ヴァン・ヴォークトのデビュー作「黒い破壊者」、アシモフの「時の流れ」が掲載され、8月号にはロバート・A・ハインラインのデビュー作「生命線」、9月号にはシオドア・スタージョンのデビュー作が掲載されました。

1939年には、ファンタジー専門誌「アンノウン」を創刊しました。アンノウン誌は戦争中の紙不足のため4年で休刊となりましたが、その編集方針は現代のファンタジーに重大な影響を及ぼしています。

キャンベルはSF黎明期の最も重要で影響力のあった編集者と言われています。The Encyclopedia of Science Fiction には「現代SFの形成に最も影響を与えた人物」と紹介されています。ロバート・A・ハインライン、A・E・ヴァン・ヴォークト、アイザック・アシモフなど多くの一流SF作家を育てています。また「亜光速で航行中の宇宙船が直角に方向転換する」ような作品を排除してSFの質を高めることに尽力しました(ただしキャンベルの強硬な姿勢は後に反発を招いています)。これらの功績と創作活動によって1940年代アメリカSFの立役者の一人と見なされています。

キャンベルが要求した思索的で、もっともらしいSFのタイプの典型として Cleve Cartmill の短編 "Deadline" があります。これは1944年、史上初の核兵器が使われる1年前の作品です。アナログ誌編集長としてキャンベルの後継者となったベン・ボーヴァは、この作品について「原子爆弾の基本的製造法を解説したもので(中略)戦前の科学専門誌に掲載された論文から得た科学情報を駆使してキャンベルと作者が構築したものである。彼らにとってウラニウム爆弾の構造は完全に明らかだったようだ」と記しています。この小説が掲載された雑誌が発売されると、FBIがキャンベルのオフィスを急襲し、販売停止を要求しました。キャンベルは雑誌を販売禁止にしたら、原子爆弾開発プロジェクトがあることを一般に宣伝するようなものだといって、FBIを納得させることになりました。

キャンベルはまた、トム・ゴドウィンの有名な短編「冷たい方程式」のエンディングにも責任があります。作家ジョー・グリーンによれば、キャンベルは望みのエンディングを得るまでに3回も原稿をゴドウィンに送り返したといいます。ゴドウィンは何とか女の子を助ける巧妙な方法はないかと考え続けました。しかし、この古典的な物語の要点は、多くの命を救うために1人の若い女性が犠牲になるという点に尽きます。彼女が生き延びた場合にはそれほど衝撃的でなかったといえるでしょう。

1950年代以降、ギャラクシー誌やF&SF誌といった新雑誌が登場していきました。そして、キャンベルの直接的影響を受けていない新人作家が登場するようになりました。

キャンベルとアシモフの関係

またキャンベルは作家にアイデアを示唆したことでもよく知られています。先に買い取った表紙のイラストにマッチしたストーリーを作家に依頼することもありました。編集者としては特に初期のアシモフとの関係で知られています。アシモフの出世作となった短編「夜来たる」はキャンベルのアイディアであり、有名な「ロボット工学三原則」もアシモフの短編を元に彼が定式化したものです。ただし一方で悪影響もありました。アシモフのファウンデーションシリーズで異星人が登場しないのは、白人至上主義者で異星人すら蔑視していたキャンベルとの衝突をアシモフが避けたためです。アシモフはキャンベルの影響について次のように記しています。

「例示、指示、迷いのない一貫した主張によってキャンベルはアスタウンディング誌やその後のSFを彼の型に嵌めていった。彼は、SFのそれ以前の方向性を捨てさせた。彼は、それまでの登場人物の在庫を一掃し、安っぽいプロットを根絶し、日曜の新聞の科学解説にあるような設定を根絶した。一言で言えば、彼はパルプ雑誌のどぎつさを抹消した。代わりに彼はSF作家に科学を理解し人間を理解することを要求し、1930年代の既成のパルプ作家にはそれは難しい注文だった。キャンベルはその点では全く妥協しなかった。彼の要求に応えられない作家の作品は買わず、その大変革は10年前にハリウッドで無声映画からトーキーへの変革が起きたのと同様の大変さだった。」

彼の思想

グリーンによれば、キャンベルは討論を活発にするためにわざと「あまのじゃく」的な位置に立って議論をふっかけるのを楽しんでいたといいます。例えばキャンベルは、黒人奴隷がアフリカからアメリカ南部に連れて来られて、アフリカに住んでいたときよりも高い生活水準になったと奴隷制度を奇妙な論理で擁護していました。グリーンはアシモフらの話やアナログ誌の論説から、キャンベルが少なくとも黒人に対して人種差別的な見方をしていると考えていました。しかし直接キャンベルと話すことで、1850年以降の急速な機械化の進展によって奴隷制が時代遅れになったという点では意見が一致しています。したがって、アメリカにとっては南北戦争という重大な災厄を被るよりも、何年か我慢していれば奴隷制は自然に崩壊していただろう、という結論に達しています。

1961年6月、"Civil War Centennial"(南北戦争100周年)と題した論説でキャンベルは、奴隷制度が歴史の大部分に存在したとしていて、現代のように奴隷制度のない文化が地球上の大半を占めている時代は特異であるとしています。そして次のように書いています。

「(南北戦争がなくとも)南部は1910年までには統合されていただろう。その場合、統合は半世紀遅れることになっただろうが、流血は避けられた。(中略)奴隷制度をなくす唯一の方法は、産業の導入である(中略)熟練した有能な機械工、例えば旋盤をうまく扱える者なら、その肌の色が黒かろうが、白かろうが、紫だろうが、水玉模様だろうが、経営者にとっては何の違いもない。」

政治姿勢

1950年代になると、キャンベルは疑似科学的理論に傾倒するようになります。そのことで、彼の元から何人かの作家が距離を置くようになっていきました。ニュートンの第3法則に反すると見られる「ディーンドライブ」や超能力を増幅するとされた「ヒエロニムスマシン」などを好意的に紹介するようになりました。また、テレパシーなどの超能力を扱った作品を好んで掲載するようになりました。

1949年、キャンベルはダイアネティックスにも興味を持つようになった。彼はアスタウンディング誌に掲載したL・ロン・ハバードの最初の記事について「これまでに出版された最も重要な記事であることを絶対に保証する」と書いています。彼は自身もダイアネティックスの技法を使って成功したと主張しました。

アシモフは「多くの作家はキャンベルに売り込むために疑似科学的な小説を書いたが、よい作家(私もその1人だが)はアスタウンディング誌から退却した」と書いています。また別のところでアシモフは「キャンベルは常識離れしたアイデアを好んだ。(中略)それを(私も含めて)多くの作家に強いて苦痛を与えたが、読者の好奇心をかきたてることは彼の義務だったとも言える。彼は一連の論説を書き始め(中略)中には極右的(1968年の大統領選ではジョージ・ウォレス支持を表明している)ともいえる社会的観点を擁護するものもあった。これについては苦言を呈する者が多かった」と書いています。

彼が育てた作家の一人であるアーサー・C・クラークは、その自伝でキャンベルについて、「彼は晩年に近づくにつれて、ありとあらゆる(ひかえめに言っても)論争を呼ぶアイデア――ダイアネティックス、超心理学、反重力機械(〝ディーン駆動〟)、極端な政治的見解――に関与し、かつての示唆に富む編集後記は意味不明に近くなった。」と書いています。

※疑似科学とは?

科学的方法に基づく、あるいは科学的に正しいと認められている知見であると主張されているが、実際にはそうではない方法論、信条や研究を指しています。

※ダイアネティックスとは?

ギリシャ語で「~を通して」を意味する「dia」と「魂・精神」を意味する「nous」を組み合わせた新語です。英語ではDianetics。心に関わる様々な基本法則を説明するものです。またそれらの原理を応用して、過去の苦痛の経験から来る精神的苦悩や心因性の病気、精神錯乱などの原因を根絶することを目的としているとされていて、1950年にL・ロン・ハバードが書いた『ダイアネティックス』が米国でベストセラーとなり、一般に知られるようになりました。

喫煙

キャンベルは生涯に渡ってヘビースモーカーでした。彼のシガレットホルダーなしの姿はめったに目撃されていません。1961年1月にアメリカ政府は喫煙の危険性を初めて一般に警告しました。すると1964年9月号のアナログ誌で、イングランド王ジェームズ1世の書いた嫌煙本の題名に因んで "A Counterblaste to Tobacco"(タバコへの逆風)と題した論説を掲載しました。その中で「喫煙と癌の相関関係はほとんどない」という持論を展開して、タバコの鎮静効果によって思考が明晰になると主張しています。

灼熱の真夏は恐怖で涼しくなってみようかな

SFホラー好きならば「The Thing」